空洞

Hearthstone(ハースストーン)の話など。雑記もあります。

人のために生きる(3か月後)

人のために生きるのを途中で忘れていた。

 

代わりに、人のために生きるという行為の目的について考えていた。なぜそれをするのか。

一つに、自分の存在意義をそこに見出す人間は少なくないということだ。人に感謝され、有難がれる人間になれば自己を肯定された気分になる。自分で自分を肯定できない人間は、他人から受けることで生きる効力を得る。

ただしこれは、空虚で満足感に欠ける作業になることもある。何のためにやっているのかわからないというやつだ。
例えば、やってあげているのに褒められないことに強い憤りを感じるタイプの人間は、このような価値観を持っている。こうなると、他人が自分に対して感謝しなかったり、何もしないような人間を見たときに、見下し、軽蔑し、憎しみを持つこともあるだろう。

なぜならば、自分を肯定できない人間は他人を肯定することも苦手だ。彼は、自分のような人間を肯定できないという話に帰着する。

 

そのような価値観でなく、自己犠牲的でなく、人のために生きるにはどうすればいいだろうか。ひとつの方法として、逆説的だが「自分のために生きる」ということなのだろう。Point of view、日本語でいう着眼点を変化させるためには、まず自分の視点でモノを見る必要がある。そこがスタート地点で、中心点だ。

 

フロムの「愛するということ」には、自己愛のなさが利己主義につながるという話がある。

…だ と し たら、 他人 への 関心 と 自分自身 への 関心 は たがい に 相容れない もの だ という こと に なる の だろ う か。 利己主義 と 自己愛 とが 同じ もの だ と し たら、 そう なる だろ う。 しかし、 この 仮定 は 誤り で ある。 そして この 誤り が もと に なっ て、 私 たち の 論じ て いる 問題 に関する、 数多く の 間違っ た 結論 が 生まれ た の だ。 利己主義 と 自己愛 とは、 同じどころ か、 まったく 正反対 で ある。 利己的 な 人 は、 自分 を 愛し すぎる のでは なく、 愛さ な すぎる ので ある。 いや 実際 の ところ、 彼 は 自分 を 憎ん で いる の だ。 その よう に 自分自身 にたいする 愛情 と 気づかい を 欠い て いる のは、 彼 が 生産性 に 欠け て いる こと の 一つ の あらわれ に ほかなら ない の だ が、 その おかげ で、 彼 は 空虚 感 と 欲求不満 から 抜け出す こと が でき ない。 当然 ながら 彼 は 不幸 で、 人生 から 満足 を つかみ とろ う と 必死 に もがく が、 自分 で 自分 の じゃま を し て いる。

ではもし自分が自分への愛情が持てないという場合、どのように対応すればいいのだろうか。
自分を大切にするという行為は、実は難しく、技術と情熱が必要だ。
それについてはまた次回考察してみようと思う。