空洞

Hearthstone(ハースストーン)の話など。雑記もあります。

寛容度の話 【人に迷惑をかけるな】

「ベビーカーが邪魔」「赤ちゃんの泣き声がうるさい」「人を誤解させたカス」「あいつは違法行為した屑」「あんなこと言って許されると思ってんの?」「はやく謝罪しろ」

 

見ているだけでとげとげしく人を突き刺すような文章だ。

日本社会には、ベビーカー論争や様々なネット炎上にみられるように、少数派や異なる価値観を排除したり、些細な失言を徹底的に攻撃する不寛容が広がっているのが現状だ。

寛容度という概念はここでは名の通り、人間の寛容さを示している。どの程度まで許せるか、という閾値に近いだろう。

ここ最近、それが低い人が目につく。目につく、といったレベルではなく、あまり主語を大きくしたくないのだが、社会全体に寛容さがなくなっているとすら感じる。10代~20代の人間に特に聞きたいのだが、生きていて窒息しそうなほど生き苦しく感じたことはないだろうか。

 

 

この寛容度の低下は、推測するに2つの事柄が影響しているようだ。

一つ目は世界の情報過多・高速化で、情報を手に入る量が大きく変化し続けていることだ。説明するのは非常に難しいが、これは明示しなくても感じているだろう。

なにせ私たちはYoutubeの動画再生を10秒だって待つことができなくなっているのだから。

 

二つ目は承認欲求と所属欲求の変化だ。いわゆるSNSだな。あまりに身近になりすぎてしまった。誰もが情報発信をし、誰もが観察される世界。相互監視だな。これに関する考察はたくさんされているだろうから、車輪の再発明をしてもしょうがないのでここでは割愛させてもらう。

 

一部の日本人はもはや絶対許さないマンだ。寛容度0の人たちはかなり危険な精神状態にあるといえる。イスラム原理主義者に近いものを感じる。つまり、それは彼らにとって絶対で、守らない人間は死ぬべきなのだ。その人間が死んだとしても当然と思うような状態だ。

どうすればみなが寛容になるかは私にはわからない。ただ、狭い世界に閉じこもれば籠るほど、その排他的な攻撃性は上がって、寛容度が下がるように感じる。日本の学校制度がその最たる例だともいえる。(いじめについて以前書いたがそれに近い)

 

 

思考まとめ

「人に迷惑をかけるな」という文化は日本に根付いている。しかし、「人に迷惑をかけるな」ということは、自分も人に迷惑をかけてはいけないという制約を課している。これは良くない。

日本人はどうして死ぬ直前まで人に助けを求めないの?という外国人ライフセーバーがいた。
「こんなことで他人の手を煩わせてはいけない」
そう思って死んでいくなんてどこか変じゃないか。そもそも人の手を煩わせないなんて生きている以上到底無理な話だ。

今私が住んでいる国では、「生きることは人に迷惑をかけること。だから人の迷惑も許そう」という文化がある。日本人には家族に対してすら遠慮するようなことも平気でする。でも実際されてみると、大したことじゃなかったりする。

まあ夜11時に寝るって言ってるのに夜中に電話かけてくるのにはやっぱり腹が立つんだけどさ笑

でも、笑って許してあげよう。迷惑をかけないことよりも、相手を迷惑だと思わないで受け入れる環境のほうがいいじゃないか。

で、明日から試してほしいことは、「人に迷惑をかけまくってみる」だ。自分が我慢していたような、でも法を犯さないようなことで、他人に迷惑かもしれないけど、やってみたいことをやってみてほしい。

 

ではまた。