空洞

Hearthstone(ハースストーン)の話など。雑記もあります。

レジェンドになる意味あるの? って話。

おじいちゃんの戯言だと思って聞いてほしい。

意味があるからやる、利益が出るからやる、そんなんじゃなかった。

面白いから、やってみたいからやるだけ。
意味なんかないけど、ただうまくなりたい。何かが得られるわけじゃないけど、ただなりたいからなる。それでいいじゃないか。

最近のハースストーンは、利益があるからなるって感じがある。シャドウバースを見ているとその100倍ぐらい感じる。最近のesports業界全体にそういう雰囲気がある。得するからこのゲームをやる。このゲームやる意味が自分にはないからやらない。いわゆるビジネスゲーマーが横行する時代になってきたと思う。それは、業界全体の成長と成熟という観点で見れば悪い事ではないかもしれない。

けれど、ゲームに対して真摯に向き合うって感じがしないんだ、どうしても。

なんでそのゲームやってるんですか? って聞かれて、
「面白くないけど金になるから」って答える時代が来ていると思う。

職業としてのゲーマーならばもはや仕方のない事だろう。

しかし、趣味としてのゲーマーは、ゲームにやらされているという状況ではなく、自分でゲームを選択してほしいと切に願う。

米津玄師とりぶ

 

米津玄師とりぶと僕は同い年って話。そしてハチ時代から米津玄師としての現在にいたるまで、そしてりぶの活動から活動休止まで、彼らの活動をただ見ていた。大勢の人にとっては本当にどうでもいい話をだらだら書き出しておこう。同い年だしもうくん付けで呼んじゃおう。やっぱやめとこう。どっか遠くに行こう。え、僕は誰だって。僕は勝手ながら同年代として親近感を持つ小さな人間。アイネクライネ。

※公開するか迷ったけれどりぶが久しぶりに歌をアップしたので上げます。この記事は2017年8月ごろに書いたものです

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近況=宇宙論と私

しばらく記事を書いていなかった。仕事が忙しくなってきたというのもあるが、どうにも考えることが多く書くことが億劫に感じられてすまない。自分の中では書くという行為は独立している。他の何かが頭をもたげていると、どうにも書き続けてまとめることが一向にできない。仕事の新規事業をどうするかでいっぱいの頭では、それが頭の中を渦巻いて書きたいことを邪魔してくるのだ。

 

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人間は、価値を認めている相手から注意をされたら、素直に言うことを聞きますがそうでない場合は、どんなに正当な内容でも反感を抱いてしまうものなのです。

人間は、価値を認めている相手から注意をされたら、素直に言うことを聞きますがそうでない場合は、どんなに正当な内容でも反感を抱いてしまうという話。

 

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シャドウバースグランドマスター到達者のみが知っているたった一つの真実、5選

 
 
 

1.相手のライフを0にしたら勝つ

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先に自分のライフが0になったら負け

 

 

2.デッキに入ってないカードは駆けつけない

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瓦は鋭い

 

 

3.回線切れには気を付ける

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トンネルに入ると落ちる

 

 

4.妄想を語らないで確率を計算する

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鵜呑みにしない

 

 

5.チームに入ってもポイントは増えない

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消防車は来ない

 

 

 

 

寛容度の話 【人に迷惑をかけるな】

「ベビーカーが邪魔」「赤ちゃんの泣き声がうるさい」「人を誤解させたカス」「あいつは違法行為した屑」「あんなこと言って許されると思ってんの?」「はやく謝罪しろ」

 

見ているだけでとげとげしく人を突き刺すような文章だ。

日本社会には、ベビーカー論争や様々なネット炎上にみられるように、少数派や異なる価値観を排除したり、些細な失言を徹底的に攻撃する不寛容が広がっているのが現状だ。

寛容度という概念はここでは名の通り、人間の寛容さを示している。どの程度まで許せるか、という閾値に近いだろう。

ここ最近、それが低い人が目につく。目につく、といったレベルではなく、あまり主語を大きくしたくないのだが、社会全体に寛容さがなくなっているとすら感じる。10代~20代の人間に特に聞きたいのだが、生きていて窒息しそうなほど生き苦しく感じたことはないだろうか。

 

 

この寛容度の低下は、推測するに2つの事柄が影響しているようだ。

一つ目は世界の情報過多・高速化で、情報を手に入る量が大きく変化し続けていることだ。説明するのは非常に難しいが、これは明示しなくても感じているだろう。

なにせ私たちはYoutubeの動画再生を10秒だって待つことができなくなっているのだから。

 

二つ目は承認欲求と所属欲求の変化だ。いわゆるSNSだな。あまりに身近になりすぎてしまった。誰もが情報発信をし、誰もが観察される世界。相互監視だな。これに関する考察はたくさんされているだろうから、車輪の再発明をしてもしょうがないのでここでは割愛させてもらう。

 

一部の日本人はもはや絶対許さないマンだ。寛容度0の人たちはかなり危険な精神状態にあるといえる。イスラム原理主義者に近いものを感じる。つまり、それは彼らにとって絶対で、守らない人間は死ぬべきなのだ。その人間が死んだとしても当然と思うような状態だ。

どうすればみなが寛容になるかは私にはわからない。ただ、狭い世界に閉じこもれば籠るほど、その排他的な攻撃性は上がって、寛容度が下がるように感じる。日本の学校制度がその最たる例だともいえる。(いじめについて以前書いたがそれに近い)

 

 

思考まとめ

「人に迷惑をかけるな」という文化は日本に根付いている。しかし、「人に迷惑をかけるな」ということは、自分も人に迷惑をかけてはいけないという制約を課している。これは良くない。

日本人はどうして死ぬ直前まで人に助けを求めないの?という外国人ライフセーバーがいた。
「こんなことで他人の手を煩わせてはいけない」
そう思って死んでいくなんてどこか変じゃないか。そもそも人の手を煩わせないなんて生きている以上到底無理な話だ。

今私が住んでいる国では、「生きることは人に迷惑をかけること。だから人の迷惑も許そう」という文化がある。日本人には家族に対してすら遠慮するようなことも平気でする。でも実際されてみると、大したことじゃなかったりする。

まあ夜11時に寝るって言ってるのに夜中に電話かけてくるのにはやっぱり腹が立つんだけどさ笑

でも、笑って許してあげよう。迷惑をかけないことよりも、相手を迷惑だと思わないで受け入れる環境のほうがいいじゃないか。

で、明日から試してほしいことは、「人に迷惑をかけまくってみる」だ。自分が我慢していたような、でも法を犯さないようなことで、他人に迷惑かもしれないけど、やってみたいことをやってみてほしい。

 

ではまた。